昭和43年7月2日 夜の御理解
国語のあの、テレビで、ティータイムショーと言うのがあってますね。あれで、禅問答を取り上げておりました。同時に、都都逸教室と言うのをやってます。それも勿論その、好きな素人さんのどっかのお爺さんらしいですね。なかなかいい声をした、あのーまあこれから三日間、その都都逸教室を、そのまあ都都逸を教えるわけなんです。片一方は禅問答。もう本当にその、まあ一つの娯楽として見せるわけですから、ですけれども、そのちょっと、まあその対照的なですね、片一方もやはり、もう七十もその上もなられるお爺さん、まあお坊さん、もう老師という、まあ言うなら、んー、お道でいうならば、もう大先生というところでございましょうね。大変上品な、あー立派に、な学識もそなえ、信心もできておられるといったような感じのとてもいいお爺さんの御坊さんでした。
まあそれを、見せて頂きながら、思ったんですけれども、私はどうも二つを一つにしたようなものを感じたんですよね。私の歌う都都逸とよう似ておった。明日からやるそうですから聞いてごらんなさい。私の節回しと同じような都都逸を歌われるんですよね。もちろんそれはおっしょうさんでもなからなければ、ああその家元というわけでもない。やっぱり町の好き者でございましょうね。やはり粋なおじいさん。
片一方はまた、えーそれもやっぱり七十位になるお爺さんでしたが、その、ぜん、ここも福岡の前座の御坊さん、もやはり七十位になる。それを若い御弟子さん方が、前満堂のところを、今日見せられたんですね。それは、禅の、仏教の言葉ですから大変難しい言葉で質問をされ、信心のことを質問される。もう信心の一番大事なところを質問されたと言うことでしたが、その質問された言葉も、私共では分からない。だからあの、あの司会をやっておる方が、そのた、尋ねたことも、それからそれに応えられたことも、質問しておりましたけれども、質問をうけても、なおかつわからんといったように難しいことでした。
けれども私感心したことはですね、あの、師匠に対してその教えをこわれる態度ですね。それがもう形というものがそのできておる訳でございましょうが、それこそ、何と申しますか、何回も何回もその、その前にひざまづいて、お礼をなさるですね、頭を下にすりつけて。そして、どうぞこれからわたしがお伺いをすることを、教えて下さいという、真剣なその態度。ほいで、これからんなら、教えるぞっとその一括されるのですかね、そのもってあるあの尺っていうでしょうか、なんか、あの木の棒のようなものでですね、その肩をぱちーっと叩かれる。ハッとするようにですね、私は昨日も朝の御理解の時に、私が、御理解を始めたけれども、まだ始めの間は大したことなかちいうごたる風できょろーきょろしとった方達が、あの、御理解の半ばでですね、ほらほら、というて私が申しましたんですけれども、御教えを頂くというあの態度ですね。その同時にまた、それをその、そういう真剣な態度で、教えをこうておられるにも関わらず、いっぺん、ぱんっとこう性根ずけられるのでしょうかね。とても御理解を頂きながら居眠をするなんていうようなことはできるはずはないです。それは教えを頂こうという態度がないから。内容がないから。教えをいよいよ解ろうという意欲がないから。そういうのが50年信心が続いてもなんにもならんです。
ね、ああまた、先生のお話、またお父さんのお話、また兄さんの、例えばすまよやら、五十枝たちの場合なんかは、そういう風に思うとるじゃろうと私は思うのです。ね、眠いのはすまよと五十枝に限っとるなんかいつも。ね、ですから私は、もう同じテレビを見るでもですたい、ね、ははあ、教えを受けるということは、ああいう大変なことだなと。さ、今日はどういう御理解だろう、先程も、昼のあの御理解がね、あまりに簡潔で、難しい。だからみんなが分かりよるじゃろうかと私が、末永さんに言うわけです。今日私は話は難しかった、けれどもその雰囲気におるとです、分かるちいうわけです。御理解を頂いているその雰囲気を頂いておると分かるんだと。けれどもあとから、それをならあそこに戸板に書いて頂いてみるのを見るとです、ね、難しい、分からないちいう。分からないならなぜまいっぺん問うてこないかと、私は思うんです。あんたどんがごたる風にいわば、信仰しておるもんですから分からんのじゃからな、一般のものはいよいよ分からんよ。あれを書き移していきよるだけに違いはないよと言うてまあ話したことですけれどもね。ね、それを受ける私は姿勢というものが、これは形だけではないですけども、内外ともにでけておらんのじゃなかろうかと。と言うようなことをね、私今日のティータイムショーを見せて頂きながら感じたんです、ね。
もう一つ、おかげを頂いてですね。もうせっかく、あの私自身も、例えば日々の御理解なんかは、難しいんです。けれどもその頂いておる時にはあなるほどそうだなと思うんです。例えば、なら今日の御理解を頂きますとね、今日のご神訓の、神はわが本体の親ぞ、信心は親に孝行するも同じことぞと。これを、神はわが本体の親ぞというようなところを非常に詳しく説きますですね。けれどもこれは、あの説けば分かること。これは信心がなくても、神はわが本体の親であるということはすぐ分かる。ね、けれども信心は親に孝行するも同じことが一番大事なところなんです。この、このご神訓は。
なら親に孝行するも同じことという信心はどういう信心をさせていただいたらよいかと。ね、御理解に、言わば、神は、ね、人間だけでなく、万物の、親、万物の親、こりゃもう生きとし生きる者、すべての育むところの、働きをしてくださる親なんです。人間だけの親じゃない。ね、万物の親であると。これはなるほどそうだと信じるのだけでも、これだけは合点がするだろうと思う。また知ってもおるだろう。だから、そこはいうまでもないことであるから、信心は親に孝行するも同じことここのところを頂く以外にはない。ね、そこで完全なる氏子に御取り立て下さいとただ願うよりなしということになる。完全なる氏子に御取り立てを願いたい。だから、これもまた御理解がいるわけなんです。信心して立派な人間にならしてもらおうと、これとは全然意味が違うということ。
どんなに立派な人間になったっちゃつまらんて。ここんところを、私は信心と、例えば、んー一般でいうあの道徳的なものと、んー混同しておる場合がある。ね、神の氏子としての御取り立て。それには、例えばまた、その今日の御理解をいうならば、教祖様の、いわば歩かれた道、いわゆる教祖様を神習わして頂くほかにはない、ね。それをどうぞせ完全なる氏子に御取り立て下さいとただ願うよりなし、またその、その精進よりなしと。ね、だから完全なる氏子にならせ頂くためにはどういう信心をさせて頂いたらよいかということに精進するより他にはないのだと。というように、まあ頂く。だから頂いたら分かる。分かるけれどもまた、後から考えてみると分からないという。
ね、例えばこうして禅問答的ないわば感じで、一時の御理解を頂いているわけです。だから大変難しい、ね、難しいから私はやはりそこんところをです、ね、本気で眠気位覚めれる、いわば、あー吹っ飛んでしまうようなですね、ぱしっと叩かれてから頂くというくらいな気持ちがね、信心を頂かせて頂く者の、態度であり、そういう姿勢を示して私は教えを頂かなきゃいけんと思う。そこで、朝の御理解の中にもあったようにね、頂いた事を、もういっぺん誰にか話さにゃいかん。話しておるうちに、それが自分のものになってくる。分からんところは明くる日また尋ねればよい。ね、それを人に伝える、というような私は稽古もまた、必要だというようなことになってくるわけですよ。ね、けれどもみんながただ、ありがたいとか、はなごととかというふうにしてるけれども、その、あそこんとこはどういうことだったでしょうかというて伺うてくるものがないんですけれども、あんみんなわかんなさっていきよるなら有り難い。ね、けどもそういう、わたくしはあの、おかげを頂いていかなければならん。今日は私は、そのティータイムショーの中から、ね、それを見せて頂きながら、そんなことを感じた、どうぞ。
池尻てるか